1991.1-1991.12
1991年、千葉県内の主要ライブハウスと言えば正直勢いは落ちたと言えどな老舗千葉ダンシングマザースに、
本八幡Route Fourteen、昨年大々的にオープンした市川CLUB GIOが主流。
LOOKさんはと言えば当然認知度なんて全く無く、当時タウン誌なんて物にも相手にされるはずもなく
逆言えばどうしたらいいのか全く判らない状況が相変わらずつついていました。
当時のヒロシ少年はと言うと
「敷居を高くしてるライブハウスなんてクソくらえ!」
「オーディションなんてカッコ付けてんじゃねぇよ!」だったので
あの時のヒロシ少年が今のボPをみたら多分一番嫌いなヤツだと思います苦笑。
まぁその辺の心境の変化は追って話しますので慌てないでYO!。
今思えば上手くいかない理由をやっかみ・逆ギレ・玉砕・負け犬の遠吠え野郎だったのかもしれません。
春になるとそれまでの店長/野辺地氏(コケティッシュうず→薮蛇古屋のGでもありました)が退社することになり
4月以降オーナーが店長兼任になったのですが、それも1、2ヶ月の話で
他の仕事をメインでする事になり店に顔を出す機会が大幅に減っていきました。
って事で驚きの事実ですが以後、この店には店長はいません苦笑。
で、店長交代劇のドサクサで1991年3月スケジュール表が念願の印刷ヴァージョンに!!パチパチ
と言いつつ手描きはそのままなんですが…。
しかもオーナーの「広告とか取ってくるから」的な…
待てど暮らせど無い的な…
仕方ないので苦肉な伝言板的な…
おまけに「顔」的な表紙にバンドの写真無い的な…
でもヒロドリってこの時から登場してる的な…
「何でニワトリなの?」って言われても上手く書けたからだけ的な…
だから何の脈略も志もないんだって的な…
仕方ないからVol.2からボPのバカ話でスペース埋めるしかなかった的な…
vol.3からサイズ変わったのは3つ折りよりは2つ折りの方が簡単だし、ぶっちゃけ3号目にしてネタ不足的な…
って事で以降vol.143までは毎月何千枚もスタッフ総出での手折りと言う苦痛の業務のスタート!デス苦笑。
アーンド若さと勢いで自画自賛ですが文章面白いデス。
こまごまと色々書いていますのでマニアになりたい方は要チェック!デス笑。
まだまだブッキングは苦戦していましたが
1月から2月…ヒマ過ぎてバンド集めてボーリング大会とかやってますね笑。
3月…昨年来た時は当時のPAがショボ過ぎて本編終わりでメイン落ちてそのままアンコール無しで終了なUNITEDが登場。
って当時のメインSPはEV Sー200が2対向って思い出すと凄いなぁ苦笑
って事はこの頃にはメインSPがYAMAHA S2115が2対向に変わってたんだ。
卓はオープン党時からのYAMAHAの20万円位のMR1604?
AUXが少な過ぎてインサートから強引にパラって8ch位のミキサーをモニター卓代わりにして4系統にしていました。
多分タム2個に1本のマイクとかな、まさにザ昭和スタイルな時代デス。
4月…勢いに乗っていたTOKYO YANKEESがバレバレのシークレットゲストで登場って事で
ステージ前に柵を付けたのですが見事1曲目で全部壊れて大変でした。
ちなみにその時、警備ををしていたのはまだ若き弊社メインエンジニア青木青年でした。
5月…ヒマ過ぎて翌月に行うレディースナイト無料配布用音源の録音に精を出していました。
ただこう言う事で色々バンドと話せて交流を深められたってのは財産だったなぁって思います。
ア〜ンド当時は結構デモテープ作ってたなぁ。
今のヤングってWラジカセをダビングし過ぎて壊したみたいな事ってないんだろうなぁ…しみじみ。
7月…当時千葉でいち早くクラブシーンとの融合を試していたINJUN'S BANDITが解散。
8月…JET BOYS(千葉)による千葉ロカビリーの祭典「ROCK-A-BILLY NIGHT」が毎回大盛況!
ア〜ンドこの時期、柱の影で愛の告白が多発。案外告白スポット気取りになる。
10月から11月…皆さん学園祭で大忙しってところでしょうか?苦笑。ちなみに「かしきり」は見栄か?気になります笑。
12月…名物となるTheピーズpresentsな「千葉で密会」の原型がスタート!
これまた名物企画となる「感謝祭」の原型となる「ビート DE チョップ」もスタート
昨年に引き続きママスカ2daysがメンバーの意志に関わらず敢行!
益々激さを増すオーディエンスをしたがえTOKYO YANKEES登場で補修工事した柵がまた壊れないかドキドキしつつも感謝。
その他、派手さだったり脈略は無くとも色々実験的だったり面白い事をやっていたんだなぁと痛感。
当時まだ27歳のヒロシ少年、まだまだやりたい&言いたい放題な時期は続く。