1992.1-1992.12
何も判らないくせに2年も経つと間違ったルールがまかり通ってしまう3年目のルックさんです苦笑。



まずはLOOK会員『運命共同体』システム導入。
当時のルックさんは「ライブハウスのチケットは直接買いにくるもの」と思い込んでいてTEL予約不可でした。
「遠方なんですが…」の問い合わせに「じゃぁ無理ですね」と普通に答えていたと思います。
まぁ地元の方が買いやすいって言えばそうだけど…、
正直即完するような公演って言ったら年に数回のTheピーズやらTOKYO YANKEES位だったので
特に関係無いっちゃ無かったのですが、そろそろ必然性も感じつつ
プレイガイドってどうやったら良いかも判らないし…な苦肉の策だったのかも知れません。

またツアーバンドなるモノが出演し始めた年でもあります。
それまでも誰かの紹介的には有りましたが店とバンドが直接関係を持ち始めた年でもありました。
そんな鎖国状態を打ち破ったのが1992年1月16日のPANAMA REDSでした。
後で分かった話ですが彼等は翌月登場の当時全国区になっていたSILVER ROSEから
初めての場所だったので視察的な感じでLOOKに来たらしいのですが
こっちも初の地方バンドって事もあり普段以上にわーい!わーい!!呑んでしまい
結果メンバーに結構な粗相をしてしまったようでかなり警戒されました苦笑。
でもその縁でPANAMA REDSやら当時彼等がホームにしていたライブハウスとも交流を持つようになり
ここから色々と他のライブハウスから勉強する知恵をつけていきました。
ってすでにオープンして2年以上経ってますが苦笑。

スケジュールが埋まらないからか、この時マイブームだったからか覚えていませんが
2DAYS、3DAYSを結構やっています。

マンスリースケジュール表ですが1992年5月号から何故かスケジュール解説的な事を始める。
特に意味はなかったのですが「自分達のバンドを紹介してもらって嬉しかった」的な事を
地元バンド君達から数多く言われるようになり
その後いつの間にかちょっとしたステイタス的な風潮になってしまい
最終的には気軽に書けないプレッシャーはここから始まったんだ…。
今一度言いますがボPの行動に深い意味なんて無いからね。
偶然か皆さんの勝手な勘違いのどっちかなんですよ苦笑。

スケジュールを読み直すとこの年も色々思い出す事が多い年でした。 ただ1〜2年目より失礼ながら思い出せないバンドが多くなってきました。
1月…現SKASHコゴロー君と初めて会った。初のツアーバンドPANAMA REDS登場

2月…サクリファイス(現UP HOLD/ケンジ少年在籍) / SILVER ROSEとロッキンf的なバンドが続けて出演

3月…当時一番動員が少なかったTHE LIM-IT(TOMKEN在籍)に100人集めるイベントを強要。
現theC&Cキーチ君出現笑。

4月…ウルフルズ2度目の出演。ってあくまでTheピーズが呼んだだけでボP達は何もしてません。
全くの無能集団なのに、今思えばこの辺りから勘違いされ始めた気がします。
この時は何かあればメンバーに直接話せば良いんだから事務所とか「あっちの方」って思っていました。

5月…昨年の2DAYSから3DAYSになったママスカ祭りが予想以上に素晴しくて特に中日は鳥肌ものでした。

6月…4月に続きTheピーズ/ウルフルズってどんだけ豪華なんだ?ってボP達はあくまでもただの受け身ですが…。

7月…現サイトウヒロシショウな野外イベント名を一時「ハイレグ素通りライブ」にしてたのですが(我ながら凄いネーミングだ苦笑)
その前の「Sound Dreamin'」に戻したのがこの年だったんですね。
年代を感じさせるネーミングですが今から25年前につけた名前なので仕方ないけど…今は『夢』って感じではないな苦笑

8月…『速弾き大会』なる物を一回やりましたね苦笑。
トーナメント方式で2人ペアでGソロの掛け合いしてお客さんに速い方を決めてもらうってヤツ。
優勝者はバッキングが一切出来ないただひたすら速いだけの高校生で「速弾き教則ビデオ」をプレゼントしました。
ちなみにこの日のリズム隊は当時exTheピーズ〜頭脳警察だった後藤升宏とザ蟹の塩野道玄の贅沢過ぎる強力コンビ。

9月…6月に引き続き笑Theピーズ/ウルフルズにグレリチも登場!!しつこいですがあくまでTheピーズが呼んだだけですからね笑。
色んな楽器店さんのスタッフに即席バンドで出演して頂き『BATTLE OF 楽器屋』なんて無茶なイベントもやってます笑。
ってかLOOKにとって『ここまで』と『ここから』が重なる重要な月でもあったんです。
まずは千葉ロックを語る上で重要人物な安井則之率いるつれづれ草の解散。
最初は「解散ライブとか意味ない」と言っていたんですがとにかくメンバーにお願いして強引に解散ワンマンをしてもらいました。
ただその際メンバーから一つ条件をつけられて「とにかく一番でかい音でやりたい」と笑。
で、これまた千葉ロックを語る上で重要な島崎彰弘氏(当時THE DYNAMITE SHAKERS/G)が音響屋もしていたので相談し
パワーアンプとメインスピーカーをその日のみ入れ替えて馬鹿デカイ音でやりました。
自分がオペしたんですがあんな良い音は後にも先にも出せない、総てが神がかった忘れられない夜でした。
ちなみにその日のギャラはその後の打上げ(総勢100人以上居た?)で総て終わらせる辺り安井らしかったです笑。
今思えばその日を境にそれまで続いた千葉ビートロックの大きい流れが少しずつ変わりはじめたと思います。
そして偶然にも同じ月に当時新しい流れの先駆者的位置に居たニューキーパイクスが登場デス。
これもその後のLOOKさんの流れを変える一つの事件でした。
元々楽器店勤務の時からBのNORI君とGの岩田君とは知合いだったのですが
如何せん当時のLOOKさんは深夜スナック営業って事で何か問題が起きる要因は総て避けてきたので
「ハードコア」という言葉だけで出演お断りな時期でありました。
とは言え知合いだったので何度か電話で「モノが壊れるような事は困る」みたいな事を確認しつつ
彼等も彼等で当時の状況がダイブする為だけの音楽になってしまっているのではないか?
と言うジレンマが有ったようで「なら一切そうならないようなライブをする」と言い
当日冒頭のMCで「暴れなくとも心はハードコア」と言い放ち鬼気迫るライブをしてくれました。
それはパンクという音楽を一切通ってきていない喰わず嫌いな自分にとってイメージと違う衝撃的なライブでした。
この日が無ければもしかして今のメロディックシーンの流れとか関係のない店になっていたかも?デス。
ちなみにニューキーはその後ユーモラスな部分がどんどん薄れ、よりディープなバンドになっていきました。

10月…5月に引き続きママスカ3DAYS。我ながらパワー感じます。
会って3回目にしてPANAMA REDS 2DAYS。我ながら凄いね笑。
当時一番動員が少なかったハズのTHE LIM-ITに強引にワンマンやらせてます。脅迫してたのかな苦笑。
結果ステッカーとデモテープを店持ちで入場者全員にプレゼント→結果成功!!。こう言うの当時は沢山やってました。
今は時代が違うから同じ方法論は通用しないけどこのパワーを最近のボPってちょっと忘れてますね反省。
その他その後Plastic TreeのVoとなる有村竜太朗がDROPIN SHOPLIFTERSが出演。
って言ってもこの時期彼はLOOKバイトでもあったけど・・・とにかく遅刻の言い訳が下手な少年でした笑。

11月…沢山デモテープは録音してきてなんちゃってレーベルのまねごとを開始。
第一弾は前出な島崎彰弘氏在籍のTHE DYNAMITE SHAKERSのビデオ収録ライブ敢行。

12月…この年4回も一緒に来てたんだ!?って驚きなTheピーズ/ウルフルズにこれまたグレリチ。
多分この頃には各バンド持ち時間30分で早々に本編を切り上げ、
その後シンイチロウ君司会で延々と続く入れ替わり弾語り大会をゆるーく行い始めた時期かと思われます。
まだ10代たったと思われる後にハイパービームになる俵良次在籍のTHE JJ初ワンマンだったり
GIANT MAMAも2DAYSやっててデキシード・ザ・エモンが出てたり
VL系?東京一家系?なGRIMM THE CAPSULEも初ワンマン(SOLD OUT)だったりかなり大盛況な12月でした。
あと先月収録したビデオ早速発売記念ライブしてます。早っ!。
さぁ、なんちゃってレーベルP.P.recordsもぐりでスタート!
この時は翌月?翌々月?に気付けばVoが抜けててその後ほぼ在庫が動かないままになるとは想像もしないボPです苦笑。
と言いますか一般的にやりそうな『祝!3周年』的イベントやる発想は完全に無かったようですね苦笑。
ちなみに只今幻のスタッフで話題沸騰中の渡部雄一郎がバイトデビューした歴史的月でもありました笑。

振り返るとまだまだ模索しつつも地元バンドと沢山知り合えてそこから楽しい発想が生まれたり
やりたい事を無茶苦茶ながらも具体化してきた時期にさしかかってきた気がします。




1992年01月
1992年02月
1992年03月
1992年04月
1992年05月
1992年06月
1992年07月
1992年08月
1992年09月
1992年10月
1992年11月
1992年12月

↑↑文字で見る唄声喫茶ルックINDEXへ! ↑↑